国貞えがく
泉鏡花
縁(えん)の早い、売口(う れくち)の美(い)い別 嬪(べっぴん)の画(え)で あった。主(ぬし)が帰って間(ま)も ない、店の燈許(あかりもと)へ、あの縮 緬着物(ちりめんぎもの)を散らかして、扱帯(し ごき)も、襟(えり)も引(ひっ)さ らげて見ている処(ところ)へ、三 度笠(さんどがさ)を横っちょで、てしま茣蓙(ご ざ)、脚絆穿(きゃはんばき)、草 鞋(わらじ)でさっさっと遣(や)っ て来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価(ね)を つけて、ずばりと買って、濡(ぬ)らしちゃならぬ と腰づけに、きりりと、上帯(うわおび)を結び添 えて、雨の中をすたすたと行方(ゆくえ)知れず よ。……
小説家。本名、泉鏡太郎。明治6年11月4日?昭和14年9月7日。石川県金沢市下新町二三番地に生まれる。明治23年、小説家を志して上京。翌年、尾崎 紅葉の玄関番として尾崎家に同居し、小説修行に励んだ。明治28年、「夜 行巡査」、「外科室」を発表し、高い世評を得るが、翌年、それまでの観念的な作風を一転させた「照葉狂言」を発表。自然主 義文学が文壇の主流を占めるなか、耽美的、浪漫的、怪異な作風を展開し、やがて「高 野聖」(明治33)などにおいて、師・紅葉を凌駕するほどの人気作家となった。大正に入ってからは、「夜叉ヶ池」(大正2)や「天守物語」(大正6)など、戯曲においても超自然的な幻想世界を展開。以後も、日本文化の古層とも繋がるよう な唯美の世界で、日本近代文学史上に独自の地位を築いた。
